ふたつのT
2yumeT
もう『時効だろうから』ということで、ある話を書いてみたい。
67年に5種目制覇の目標を達成した後、GP活動を終了した社では、
70年代に国内のモトクロスにワークス参加させることからマシン製作を再開した。
(話はそれるがいつかまたレースを再開するに違いないとの想いで入社した私でした)
ロードはワークス参戦しておらず、それまではCB500で(故)隅谷守男が自作マシンで
劇走することに象徴されるH社レース不開の時代であった。
なぜなら、『終了時の大儀を説き伏せる言葉が、
まだ見当たらなかったから』としておこう。
このころ、ヨーロッパでは、特にフランスにおいてはカワサキが
すごく売れていたのだ。
調べるもなく、現地からは、耐久レース、特にルマン24hrを
勝ったマシンが売れ行きに直結するので、
『参加して欲しい』という具合のいい要望が?入ってきていたのだ。
(この頃カワサキZ1000ベースのゴディエジュヌーマシンが連年優勝していた)
76年からSOHC4気筒のマシンがRCB1000初年度版として
ワークス参加し、勝利した。
このマシンはやはり、GP時代のノウハウで車体レイアウトされたものであり、
研究所のgpのカウルを手で叩きだしたベテラン職人Fさんの手によって
原型が作られるなど、それはウキウキするものだった。
RCBは連勝していた。
(この年、私は別の機種の水冷システムの確立と量産を
追い込まなければならなかった。別記することが
あるかと思うが、この時期の2輪開発の最優先プロジェクトで
あった。)
しかし、rcbには、
当時、GP500で最速のマシンヤマハYZR500や
RGB500と比べ、耐久レーサーとスプリントレーサーという
違いこそあれ、こうあるべきじゃないかと考えるべき点があると思われた。
『ライディングポジション』、『エンジン位置』、
『タンク形状』などの改善である。
これはやはり、レーサー上がり、あるいはレースをしている
テストライダーに聞くべきだと判断し、
test室に行っては『どうなんだろか?』と
尊敬する諸兄に話を聞きに入った。
その普段からよく話をしてくれたライダーに角谷新二選手がいた
。
『わしはこう思うんやけど』、『そのはずやで』、
『耐久だからちゃうとは思えへんけどな』、
時を改め、聴くうちに彼の言葉が耳に残った。
彼はたしかその頃、CR125(モトクロス)をベースに
ロードレーサーを作りたいというので、
私は設計仕事の合間に図面協力したり、
時には内緒で部品を作ってあげたりすることで
自分も彼のレースやブルヘルに参加している嬉しさがあった。
そういう仲間だった。
その年(77)の終わり、RCBが迎える3年目のマシンを手がけることになった私は
早速、改善項目に手をつけ、『60年代のマシンの考え』から、
『今日のマシンの作り方』に挑戦したrcbをまだ寒いルマンに持ち込んだ。
結果、ラップタイムを計り考察する超ベテランチーム監督からは
『OK』の言葉を頂くことが出来た。
設計屋のアイデアや決断の基には、
こういうライダー達からのバイクに情熱を注いだ走りの経験と洞察を通じての言葉が
手がかりであり、とてつもなく大きく価値があるものだという例である。
昨年、角谷氏の訃報を聞き、
20年以上も会っていなかった『時の流れ』に
自分は悲しみを受け止める方法がなかった。
なにかをしたい。
そういえば、あの頃研究所内で仲間たちでもうひとつの
レースチームを作りtシャツを作ったっけ。
『チームランズ』。『走る』という言葉を『ランズ』としたもので、
チームマスコットはなぜかキャンディーズのランちゃんであった。
当時、所員の10%以上がランズTを手にした、あれだ。
角谷さんも着てくれたっけ。
その当時の版が私のガレージに今でも残っていたのである。
これでどうだろうか?
イタリア育ちの関係者に言葉をさがしてもらおう。
バイクへの情熱とともに。
デザインは訳を話して美研さんにやってもらうこととした。
また、ありがたいことに、もしTシャツがあまったら、
全部引き取ってくれるという、エンデュランスの
浅見氏(角谷氏との盟友、8耐のコンビ)、
集計には研究所や鈴鹿、狭山レーシングなどの旧レース仲間たちが
角谷氏同様20年以上もあっていないのに協力してくれた。
まとめたり推進してくれたのは四宮さん。うっかり辞めてしまった大好きな研究所に
彼のおかげでまた入って打ち合わせする事ができた。(私事ながらうれしい。)
早速、ブルーヘルメットとランズのロゴも入った
素敵なTのデザインとともに製作をGO。
今、出稼ぎ中の私の帰国日にあわせて研究所には印刷所から
納品してもらうことになったのだが、前回の帰国時に聞いたところ、
納品された日は命日からちょうど1年になるという。不思議なことだった。
そして、今回の出稼ぎで飛行機に乗る直前に四宮からメールが入った。
『A選手がこのTを着て今年マン島を走ってくれる』と。
作ってよかったあ。
あたふたと飛行機に乗り、満席のエコノミーシートで、
もうマン島での情景を思い浮かべ始めているうち、風景がにじんで見えた。
でも、悲しいのではない。
ようやく受け止めることが出来たのだった。
多くのみんなへの『ありがとう』という気持ちと共に
元気が湧いいてきた。
そして、いいバイクをまだ造るのだと。教えてもらったノウハウを生かすべきだと。
きっと千の風もマン島に吹くことだろう。
* tシャツはいまのところ市販は未定です。
* おなじく夢トレーナー(美研さんデザイン 下記画像)も、
谷口尚己さんにより今年のマン島にて着ていただけることになりました。
別記予定
tの画像は角谷氏の菅生最終コーナーでのその自作CR125改より。(撮影は同じくブルヘル撮影販Abさん)
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実際に会った人物列伝より
角谷新二 (歴代チャン
ピオンリスト)
背は高い方ではなく、痩せ型の彼は、60年代後半でのレース結果を知る私にとっては、尊敬するテストラーダーでした。
機種の開発で、直接仕事を共にしたことはなかったが、崇高なライダーが、テスト室で仲間と話す中に、いつしか私も混ざっていられるようになった。
走した期間を通じ、バイクの操縦安定性理論など、持論と、信念、洞察による、いろんな事を聞くのは楽しみであった。
(それるが、Tシャツを時に触れて作りたい気持ちになるのは、こうしたメッセージ性を実感したのもあるかもしれない。)